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◆北海道南西沖地震
 93年7月12日午後10時、奥尻島で北海道南西沖地震が発生し、テレビから凄まじい光景が飛び込んできました。発生後5日目に、駅前で、学生が街頭募金を行っていました。その学生達とラオス小学校建設に行ったメンバーを中心に、現地で救援活動を行いたいという気運が高まり、出発に向けて準備を開始したのが地震発生後6日目でした。
  マスコミを通してリアルタイムに送られてくる災害現場の生々しい映像は、「行って何かをしたい」という気持ちと、技術も専門性もない学生達に「何ができるのか」という不安、また余震などの二次災害に対する問題と葛藤しながら、準備を進めることになりました。まず現地の情報収集を行いました。人手が必要だという事、交通手段が確保された事、そして水は確保されている事を確認し、隊員を一般募集し、隊員の衣食住の確保に奔走しました。地震発生後12日目の7月24日、20名の隊員は鍋釜、食料を背負って上野から夜行急行で出発しました。
  奥尻島は、江差から1日2本の船が出ています。私達は2本目の船に乗る予定で計画していましたが、途中、踏切事故で1時間ほど電車が止まり、この分では江差で野宿するしかないと思っていたのですが、車掌に奥尻島に救援活動に行くことを告げたところ、なんと、我々が止まっている小さな駅に、寝台特急がとまり、それに乗り移れということでした。このときの驚きと感動は、今でも忘れることの出来ない思い出のひとつです。一人用の寝台に3人づつ膝を抱えて乗り、その後全ての列車が遅れていたため乗り換えは、装備を背負っての必死の乗り換えでした。夜の9時に上野を出発して一食もできず、奥尻島に着いたのは、19時間後の午後の4時でした。
■初めて見た災害現場
  船が島に近づくにつれ、テレビでみた映像がそこにありました。フェリー埠頭の後ろにある小高い山がひとつ、頂上から何かとてつもない力で引き裂かれ、むき出しになった土を掘り起こすブルドーザーの騒音。そこは、なお行方不明者の捜索が続くホテル「洋々荘」の崖崩れの現場でした。テレビという映像を通して見た「どこか他人事の現実」から、まさに「自分自身の現実へと」認識が変わっていきました。小雨の中、全員睡眠不足と空腹を忘れ、その一点を凝視していました。到着後まっすぐに役場に行きましたが、役場はパニック状態でボランティアにかまっている状態ではない様子でした。集めた募金約60万円を渡し、救援物資の倉庫となっている、奥尻高校・体育館に向かいました。
■救援物資の仕訳・配送作業
  夜寝ていると下から突き上げるような、直下型の余震が続く中、最初の問題は、たき火をしてはいけないという事でした。米をたき火で炊こうと思っていましたから、これにはまいりました。携帯用のガスコンロで炊きましたが20人分の米を炊くには火力が弱く、沸騰しないお湯で炊く米ですから、毎食芯のある米を食べました。
  到着後、2,3日がすぎ、体育館から仮設住宅、避難所へと活動範囲を広げていきました。青苗地区はまさに廃墟という状況でした。残った電線に海草がぶらさがり、津波の高さを物語っていました。捜索隊が、まだ服の切れ端がこびりついた片腕を、ビニール袋に入れて持ち運び、そして身元不明の遺体特徴が記された掲示板に群がる人々。そこには「女性・40歳位、へそ下に手術跡、頭部顔面なし」と書かれていました。地元の仲良くなった子供の口から、「父ちゃん死んだ。母ちゃんも死んだ」と聞かされました。また、仮設住宅へ救援物資の配送途中、「おーい、もうそっちへは配るな!」と仮設住宅に住めない老人から罵声をあびせられたり、また仮設住宅に、かぼちゃを1個づつ配っていたら、「うちは5人家族だ!、それでカボチャが1個か!!」と怒鳴られました。ここには生々しい現実がありました。あまりにもショッキングな現実。そしてその現実に対して感じることをやめてしまったかのような住民。考える余裕を与えさせない混乱がここにはありました。
■救援者のおごり
 毎日、被災者の顔が見えない場所での地味な仕訳作業や、住民に対して何もできない事への苛立ちで、学生の顔から笑顔が消えていきました。直接被災現場から帰ってくる学生たちの情報からは、自分たちにやれることは、この活動以外にないということは認識していましたが、やりきれない空気に支配されていました。6日目のミーティング。「住民の苦しみは、我々にはどうすることもできない、自分たちにできることを完全にやろう」と再確認した翌日、大量の布団が届き、自衛隊と昼食を賭けて、避難所に運び込む配送競争を行いました。学生も自衛隊員も同世代の若者です。すぐにお祭り騒ぎとなったその時、今まで無表情だった住民が、なんと大笑いしていたのです。まさに、私たちに初めて心を開いてくれた瞬間でした。その後、私たちの中で、何かが吹っ切れました。学生たちは、学生のノリで住民に接触しました。「おやじ、たまにはヒゲ剃れよ!」「おばちゃん、昔はきれいだったんじゃない?」と、そこには救援者意識も、被災者意識も無い、普通の学生と島の人たちとの会話がありました。遊びに来なくなっていた子供がまた遊びにくるようになったとき、「なぜ遊びに来なかったのか」と訪ねたら、「お兄ちゃんたちが、面白くなくなったからだ」と言っていました。住民の人たちや子供たちが我々に当初感じたものは、我々が意識していなかった、「救援者意識のおごり」ではなかったかと思います。人間としてまだまだ未熟な私たちが、物理的な問題はともかくとして、パニック状態の中、精神的にも何かをしてあげたいと思う気持ちが時に、住民を自分たちとは別な人間として扱うことになってしまったのではないのでしょうか。このことを自分たちが被災者だったら受け入れたのでしょうか。帰郷の朝、「今度はウニ丼を食べに来いよ」、と涙している島民に見送られた時、自分たちの活動に満足感よりも安堵感を覚えたのは、ここで教わった事の大きさによるものではなかったかと思います。いかなる環境においても自分たちの出来ることを責任を持って行い、その環境をしっかりと理解し、そして楽しまなければ、周りを楽しませることはできないことを認識しました。

■天皇、皇后両陛下からお言葉を賜る
 現地で活動中に、多くの政治家の方々から激励を受けました。そんな中、天皇、皇后両陛下から、一人一人の学生にお言葉をかけていただきました。「来てくれて有り難う」「住民を助けて上げてくださいね」のお言葉に、両陛下の深い愛情を感じました。


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